想いあえばつのるせつなさ。
「或る事件にまつわるエトセトラ。」
1 事件
夕方の公園。
ベンチに座り、あたしは深々とため息をついた。
どうしていつもこうなんだろう……。
小さな後悔。そして嫉妬。
また、乱馬とけんかをした。
けんかをするのなんて、いつものこと。いつものことなんだけど、でもやっぱりすぐに割り切れるものじゃない。
ほんとに、くだらないことといえば、くだらないことなんだ。
右京が乱馬のためにお弁当を作ってきてて、乱馬が
「あかねのメシなんてマズくてマズくて」とかまたひどいことを言うから、売り言葉に買い言葉。
不器用なのはわかってるわよ。
でも一生懸命がんばってるんだから、あそこまで言わなくたっていいじゃない。
あたしだって、もうちょっとお料理がうまくなって、おいしいごはんを乱馬に食べさせてあげたいなって思ってるのに。
そのままずるずるとけんかしちゃって。
今日は帰り道に、買い物につきあってもらう予定だったのに、それもなくなっちゃった。
乱馬をおいて、ひとりでさっさと学校を出てきてしまった。
「許婚」ってなんなんだろう。
あたしと乱馬は、許婚だから一緒にいて、許婚だから将来結婚するのかな。
そこに、気持ちはあるのかな。
あたしは、許婚だから乱馬のことが好きなのかな。
乱馬の気持ちはどうなんだろう。
もう、わけがわからない。
ひとりで怒って、そしてやきもちを焼いて。振り回されている。
乱馬の気持ちがちっともわからない。
公園は、もう日が落ちかけていた。
さいごの日差しの余韻が、遠くの山の方にだけ残っている。
公園の中はかなり薄暗くなっていた。
そろそろ帰らなくちゃ。
帰ったら乱馬のやつぶっとばして、スッキリしよう。
けんかしたって、どうせ次の瞬間には当たり前みたいに一緒にゴハン食べたりしてるんだから。
そうよね。
自分に言い聞かせるようにして、あたしは立ち上がった。
その瞬間、ベンチの後ろの茂みで、ガサガサと音がした。ような気がした。
なんだろう…?
ふりかえったその時。背後から回された何かで口をふさがれて、ずるずると茂みの方へ引きずりこまれた。
な、何?!
混乱して何が起こっているのかわからない。
触って気づく。手だ。軍手をしている。大きな手が、自分の口をふさいでいた。
誰?
やだ。
ヤメテ。
もちろん抑えられているので声は出ない。
芝生に押し倒される。目に相手の姿が飛び込んでくる。
男だ。帽子を深くかぶり、マスクをしている。サングラスもかけていた。
そしてその手のひらは、まだあたしの口をふさいでいる。そのまま、
「おとなしくしろ」
低く押し殺したような声でそれだけ言った。
空いている片方の手が、制服のスカートをたくしあげようとする。
イヤだ!!
必死にそれをやめさせようと抵抗するが、それもむなしく抑えられる。
口に当てられていた手がはずされて、今度はその手で、両手をまとめられ、押さえ込まれる。
呼吸がいくぶん楽になったが、咳き込んで声が出ない。
怖い。
恐怖で、いつもの力の半分も出ない。
ふだんならこんなやつ、片手でぶっとばせるのに。
怖い。
怖い。
恐怖で、めちゃめちゃに体を動かす。じたばたと。無駄とわかっても抵抗せずにはいられない。
このまま好きにされてはたまらない。
たすけて…! 乱馬…!!
「おとなしくしろっ」
男がもう一度言った。
その時、かすかに遠くから声が聞こえてきた。
男はその声に耳をすます。
どうやらこちらに近づいてくるようだ。
「ちっ」
男は舌打ちをすると、あたしの体から離れ、走り去っていった。
助かった。
助かったのだ…。
けれど、あたしはすぐには動けなかった。
おぞましい感触がまだ口に、足に、肌に、残っている。
息が荒い。
「ったく、どこほっつき歩いてんだよ」
突然その声が耳に届いた。
先ほど遠くから聞こえた声の主だ。
あたしは、ゆっくりと体を起こした。
芝生の上。横には茂みがあり、その向こうにベンチがある。ベンチの横に彼は立っていた。
「ら、んま…」
あたしの声は小さかった。それでも乱馬は気がついて、
「あかね? どっかにいるのか?」
きょろきょろと見回し、やがて芝生に座りこむあたしを見つけ出した。
「ったく、何やってんだよ、こんなと」
あきれた…といった表情が、一瞬でこおりつく。
そこではじめてあたしは自分の姿をまじまじと見た。
制服のブラウスはボタンがとんでいた。スカートはひざより上までたくしあげられて、靴は片方脱げている。
自分のその状態を認識して、はじめて、自分が襲われたんだということを自覚した。
じわりじわりと恐怖がよみがえる。
肩もひざも小刻みに震えていた。
そんなあたしの様子を見て、乱馬はすべてを理解したようだった。
「っきしょー! さっき走ってったあのヤローだな。ぶっ殺してやるっ」
荒くなった乱馬の声にまで、さっきの恐怖が敏感に押し寄せる。
「や、やめて」
その声を止めたくて、あたしはそうつぶやいた。
「大丈夫。なんでもないから」
「なんでもないわけねーだろ!」
あたしのために怒っている。怒ってくれるのは嬉しいけれど、今はもうそっとしておいてほしかった。
「ほんとに大丈夫だから。ちょっと触られただけで。だから。だから…もう帰ろう」
あたしはうつむいたまま。搾り出すような声でそれだけ言った。
しばしの沈黙。
乱馬の顔は見られない。なぜか顔を上げられなかった。
しかし、乱馬はそっとあたしの目の前までやってきた。そしてしゃがむ。
「おい、ほんとに大丈夫なのか?」
心配そうな、そしてさっきよりは幾分おだやかな声で、あたしの顔を覗き込んだ。
「うん、だいじょうぶ」
乱馬があたしの肩に手をのばした。
乱馬の手のひらが触れる、そう思った瞬間、あたしは思わず身を縮こまらせた。びくっと無意識に体が反応してしまった。
急に、さきほどむりやり触られたときの感触がよみがえったのだ。
反射的に思ってしまった。怖いと。
相手は乱馬だというのに…。
「あ…ごめ、ん。乱馬…」
見ると、乱馬は怒ったような硬い表情で立ち上がり、「いくぞ」とだけ言った。
あたしは涙をこらえる。
泣いてはだめだ。
泣いたら負けだ。
意地っ張りは健在。
乱馬、ごめんね。
乱馬の背中にむかって、心の中で小さくつぶやく。
こんなことになって、ごめんね。「乱馬」
声をかけると、
「なんだよ」
振り返らずに乱馬は返事をした。
「あの…みんなには黙っててね」
「…わかってるよ」
2 おれのせい
元気なふりはわりと簡単にできた。
乱馬と一緒に帰ってきたから、少しだけ気持ちが落ち着いたのもあるかもしれない。
「おかえり」
かすみおねえちゃんが出迎えてくれる。
なびきおねーちゃんも、おとうさんもいつもと変わりなく、いつもの日常が家の中にはあった。
乱馬だけがむすっとして不機嫌そうに何も言わない。
あたりまえの食卓につくと、さっきのことなどまるで夢だったんじゃなかとさえ思えた。
「乱馬くんと何かあったの?」
なびきお姉ちゃんが、乱馬の様子がいつもと違うのを気にして聞いてくる。
「うーん、……ちょっとね。でもなんでもないから大丈夫」
「またケンカ?! ほんっとあんたたちって仲がいいわよね」
「そんなことないわよ」
そこであたしは席を立った。
「おねえちゃん、ごちそうさま」
「あら、もう食べないの? あかね」
「うん。ちょっと寄り道して食べてきちゃったから、あんまり食欲ないんだ。ごめんね」
笑顔も難なく作れた。
「さて、宿題してこよっと」
わざと明るくそう言って、居間をあとにした。
背中に乱馬の視線を感じた。
けれど振り返ったりはしなかった。
あたしは大丈夫。
大丈夫だからね、乱馬。部屋へ戻ってしばらく宿題と格闘してみたけれど、どうも集中できなくて、道場へ行くことにした。
なるべくぼーっとしたくない。
油断すると思い出してしまうから。
何かやっていた方がいい。
そしてさっさとお風呂に入って眠ってしまおう。
そう思って道場へ行くと、乱馬がひとりで稽古をしていた。
「乱馬…」
声をかけたが、乱馬はちらりとこちらを見ただけで、何も言わなかった。
「……なにか、怒ってるの?」
「べつに」
こちらを見ようともしない。
「うそ。怒ってる」
「怒ってねーって言ってるだろ!!」
突然叫んだ乱馬は、そこで我に返り、
「ごめん」と一言謝った。
乱馬の額に、うっすらと汗がにじんでいる。
あたしは壁際においてあったタオルを持ってくるとそれを乱馬に差出た。
「おまえ…大丈夫なのか? その…」
乱馬はタオルを受け取りながら、曖昧なことをたずねてくる。
「へ、平気よ、本当に少し触られただけだもん」
あたしはなんとかしてまた笑顔を作るが、
「ムリして笑うなよ」
あっさりと乱馬には見破られてしまう。
「平気なんて言うなよ。おれは平気じゃねーぞ」
「え?」
「おれは許せねーよ。あかねをあんなめに合わせたやつも許せないけど、それより許せないのは……!」
乱馬はしゃがみこんで、床に拳を打ちつけた。
その勢いがあまりにもすさまじくて、あたしは息を飲む。
「乱馬…?」
怒っているのだろうか。あたしを? それとも…。
静止したままの乱馬が心配になって、あたしはしゃがみこむ。
その気配に気づいて、乱馬は顔をあげた。
いつになく真摯な表情。
乱馬は手を伸ばす。そして、あたしの肩に触れようとした。
さっきみたいに逃げちゃだめだ。
…と思っても、体が言うことをきかない。
ビクリと恐怖を感じ、あたしは身をひいてしまった。
「ご、ごめん。乱馬、あのね、あたしそんなつもりじゃ……」
「っきしょう……!」
再び床を殴る。
「平気なんて言うなよ。あの時ケンカなんかしてなけりゃ…! いつも通り一緒に帰ってりゃこんなことには……」
「ら、乱馬のせいじゃないわ。ねぇ、乱馬!!」
「おれのせいだ」
みると拳から血がにじんでいた。
3 ぬくもりが伝えたこと
夜は目がさえた。
公園での一件よりも、乱馬のことが頭から離れなかった。
あのことを自分のせいだと言った乱馬。
確かに一緒に帰らなかった。いつもなら帰っていたはずの道を、今日は一緒に帰らなかった。
けんかさえしていなければ、あそこに座り込んでときをやりすごすこともなかった。
こんなめには合わなかったかもしれない。
けれど、それは乱馬の責任ではない。
仕方のないことだったのだ。
あたしの中でも、誰かを責めるつもりはない。自分の責任だとも思う。
むしろ乱馬が来てくれなければどうなっていたかわからないのだから、乱馬には感謝している。
心の中で、乱馬に助けを求めていた。
あたしは、知らないうちに守られていた。
乱馬に。
思わず乱馬に助けを求めてしまうほど。
負けず嫌いで意地っ張りなあたしが、こんなにも乱馬を頼っている。
そして、それにちゃんと応えてくれる乱馬。
気持ちはちゃんとそこにあったのだ。
許婚だとか、将来のこととかは関係ない。
そんなことよりも先に、ちゃんと気持ちはそこにあったのだ。
疑う余地のない事実だった。
どうして乱馬の気持ちがわからないなんて思っていたんだろう。
こんなにも、彼はあたしのことを思ってくれているのに。薄暗い部屋で、考えれば考えるほど、あたしの目は冴えた。
明日の朝、ちゃんと乱馬に伝えよう。
乱馬のせいじゃないよって。
好きと伝えるにはまだ時間がかかりそうだから。
素直になりきれない気持ちも一緒に込めて、ありがとうって。少し気持ちが落ち着いた。
あんまり眠れないので、台所へ行って水でも飲んでこようか。
あたしはベッドから抜け出して、他の家族を起こさないように、そっとドアを開いた。
すると目の前に、丸くて大きなものが置いてあった。
「ひぃ」
小さく悲鳴をあげる。
が、よく見ると、それは毛布にくるまった、乱馬だった。
竹刀を抱いて、うつむいている。
「ちょっと、乱馬! 何してるのよ」
声を殺して、あたしは乱馬の体をゆする。
「うわ、いけね! 寝てた!!」
乱馬が顔をあげる。
「あ、あかね!! どうした、何かあったか?!」
あたしに気づくと、血相変えて振り返った。
「何かあったかじゃないわよ。こんなところで何してんの?」
「いや、別に」
小さく言うと、次に乱馬は自嘲気味に軽く笑った。
「ほんっと、何してんだろーな。おれ。家の中で何かが起こるわけねーのに。でも、何かしてないと落ち着かなくてさ。あかねに何かあってからあとで悔やむのはもうイヤなんだ。何があっても今度はおれが守ってやりたい」
へへっと照れたように今度ははにかんだ。
さっきの、道場での顔とは全然違う。優しい乱馬だった。
「大丈夫よ。もう本当に大丈夫なんだから。ありがとう」
意識せずとも、自然と笑顔になれた。よかった。あたしは心からそう思った。
「よかった…」
乱馬も笑顔になる。あたしのほほに触れようとして、でも気がついた様子で、今度はあたしの体が反応するよりも早く、乱馬の手のひらが先に身をひいた。
「ごめんね。ちゃんとわかってるの。でも体がついていかなくって。まだ触られた時の感触が肌に残ってる。お風呂で何度洗ってもその感触だけは消えなくて。乱馬が悪いわけじゃないのに。ごめんね」
話しているうちに、涙がこぼれた。
ぽたり。ぽたりと雫が落ちる。
「全然平気じゃねーだろ。ちゃんと、そうやって言えよ。なんでも」
「うん、……うん」
乱馬の優しさが心にしみて、涙はどんどん溢れてきた。
触れたい。
触れたいと思った。
目の前にいるこの人に、どうしても触れたいと思った。
そうして、暖かくて、優しい乱馬の胸に顔をうずめる。
なんて、なんて心地よいんだろう。
この人のこのぬくもりに、触れることもせずに拒否していたなんて。
乱馬はそっとあたしの背中に手をまわした。
そして、強く、強く抱きしめた。
おしまい
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初の中篇シリアス小説でした。ちょっとダークなネタに突っ走ってしまいました。
賛否両論、好き嫌いいっぱいあると思います。
こういうのが苦手なのに、読んでしまった方には申し分けないです。
要するに、最後のところが書きたかったわけですけども、
何かを痛切に守りたいという思いって、すごいなぁと思うわけです。
たとえば、それが自分のためだったとしてもね。
自分がつらいめに合いたくないから、だから誰かを守りたい。
それが自分中心だとは思わない。
むしろやましいところまで認めてしまった素直な人間の心だと思います。
一体何が言いたいのでしょうか。わけがわからんちんですね。
こんなところまで読んでくださって、ありがとうございました。
(04/07/25)